退職給付信託からの返還を検討する際に確認しておきたいこと ~「いくら返還できるのか」を考える前に~

1. はじめに
近年、退職給付信託をめぐる環境が少しずつ変化しています。
退職給付信託は、退職給付会計の導入をきっかけに、多くの企業で活用されてきた仕組みです。企業が保有する株式などを信託に拠出し、一定の要件を満たすことで、会計上は年金資産として取り扱うことができます。これにより、退職給付債務に対する積立不足を圧縮し、貸借対照表上の退職給付に係る負債を抑える効果が期待されてきました。
特に、政策保有株式に含み益がある企業にとっては、その含み益を退職給付制度の財政安定に活用できる手段として、退職給付信託は大きな役割を果たしてきたといえます。
一方で、最近では退職給付信託内のみなし保有株式を売却し、その後、信託財産の一部を事業主に返還できないか検討する企業が増えています。
背景には、株価上昇によって退職給付制度の積立状況が改善していることに加え、コーポレートガバナンス・コードを起点とした政策保有株式縮減の流れがあります。資本コストや資本効率を意識した経営が求められる中で、「退職給付信託内に残っている資産を、今後どのように活用すべきか」という論点が、改めて注目されているのです。
2. 退職給付信託の資産は、自由に返還できるわけではない
ただし、ここで注意が必要です。
退職給付信託内の資産は、事業主が自由に使える資産ではありません。もともと退職給付に充てることを目的として、事業主から法的に分離された財産です。そのため、単に「積立超過になっているから」「株式を売却して現金化したから」という理由だけで、自由に事業主へ返還できるわけではありません。
退職給付会計上、退職給付信託が年金資産として認められるためには、主に次のような要件を満たす必要があります。(企業会計基準適用指針第25号「退職給付に関する会計基準の適用指針」の第18項参照)
- 退職給付に充てられることが退職金規程等により確認できること
- 信託財産が退職給付に充てることに限定された他益信託であること
- 事業主から法的に分離されており、信託財産の事業主への返還や受益者に対する詐害行為が禁止されていること
- 信託財産の管理・運用・処分が受託者によって信託契約に基づいて行われること
これらの要件は、退職給付を受ける従業員や退職者の権利を守るためのものです。
したがって、要件を満たさない形で信託財産を返還しようとすると、残された信託財産についても会計上の年金資産として認められなくなる可能性があります。その場合、退職給付債務との相殺処理ができなくなり、かえって貸借対照表上の退職給付に係る負債が増加してしまうことも考えられます。
つまり、退職給付信託からの返還を検討する際には、「どれだけ返せるか」だけではなく、「返還後も退職給付信託としての要件を満たし続けられるか」を確認することが非常に重要です。
3. 返還可能額は、現在の積立超過額だけでは決まらない
退職給付信託からの一部返還については、企業会計基準適用指針第25号「退職給付に関する会計基準の適用指針」の第106項が重要なポイントになります。
同項では、退職給付債務と年金資産を比較したうえで、将来の予測可能な「一定期間」においても積立超過の状態が継続し、その積立超過分が退職給付に使用される見込みがないことを「合理的に予測できる」場合には、例外的に返還が認められる余地があるとされています。
ここで大切なのは、返還可能額は「現在の年金資産から退職給付債務を差し引いた金額」と単純に一致するわけではない、という点です。
たとえば、現在は大きな積立超過になっていたとしても、今後退職者が増加し、給付支払いが増える見込みであれば、その超過額の一部は将来の退職給付に必要となるかもしれません。また、現在の退職給付債務が減少傾向にあっても、その理由が一時的な金利上昇や特定の年齢層の退職によるものであれば、その傾向が将来も続くとは限りません。
そのため、返還可能額を検討する際には、現在の積立状況だけで判断するのではなく、将来の退職給付債務と年金資産の推移をシミュレーションする必要があります。
4.「合理的な予測」とは何を意味するのか
実務上、悩ましいのは「合理的な予測」をどのように行うかです。
適用指針では、積立超過の状態が将来の一定期間にわたって継続することが求められていますが、シミュレーションの具体的な方法、期間、前提条件について、細かな基準が示されているわけではありません。
そのため、実際には企業ごとの制度内容や人員構成、給付見通し、資産運用方針などを踏まえて、合理的と考えられる前提を設定することになります。そして、その前提について監査法人と協議しながら進めることが一般的です。
もっとも、監査法人が最初から具体的な計算条件を示してくれるとは限りません。むしろ、事業主側がシミュレーションの考え方や前提条件を整理し、それを監査法人に確認していく形になることが多いと考えられます。
このとき、単に足元のトレンドを延長しただけのシミュレーションでは、合理的な予測とは認められにくい場合があります。
たとえば、足元で退職給付債務が減少している場合、その原因が割引率の上昇にあるのか、人員構成の変化にあるのかを確認する必要があります。割引率の上昇によって債務が減少しているのであれば、今後も同じように金利上昇が続くことを前提にするのは、やや楽観的と見られる可能性があります。
また、人員構成の変化によって債務が減少している場合も同様です。高年齢層の退職が進むことで一時的に退職給付債務が減少しているとしても、企業が継続して従業員を雇用していく前提に立てば、いずれ債務の減少は落ち着き、一定の水準で推移する局面を迎えると考えられます。
したがって、シミュレーションでは、足元の傾向をそのまま延ばすのではなく、割引率の将来の傾向や人員構成の将来変化を踏まえた前提を置くことが重要です。
5. 退職一時金制度とDB制度では、見るべきポイントが異なる
退職給付信託の対象となる制度には、大きく分けて退職一時金制度と確定給付企業年金制度、いわゆるDB制度があります。
この2つでは、返還可能額のシミュレーションで注意すべき点が異なります。
DB制度の場合、通常は制度として掛金を拠出する仕組みがあります。給付や期待運用収益率を踏まえて掛金が設定され、制度全体として年金資産を積み立てていく構造になっています。そのため、退職給付信託の資産とDB制度本体の年金資産を一体として見た場合、一定期間にわたって積立超過が継続するかどうかを確認しやすい面があります。
一方、退職一時金制度に対する退職給付信託では、事情が少し異なります。
退職一時金制度には、DB制度のような定期的な掛金拠出の仕組みがありません。そのため、退職一時金の支払いを信託財産とその運用収益のみに依存する場合、給付の支払いに伴い信託財産が徐々に減少していく可能性があります。
仮にシミュレーション期間中は積立超過の状態が維持されていたとしても、平均的な積立水準が傾向的に低下しており、その後に積立不足へ転じることが容易に見込まれる場合には、返還の妥当性について監査法人から慎重な見方をされる可能性があります。
このような状況において、運用収益の改善のみで将来の給付不足を補おうとすると、一般に運用リスクを高める必要が生じます。その結果、シミュレーション上の資産価格の下振れ幅も大きくなり、当初想定していた返還可能額がかえって減少するケースも少なくありません。
そのため、例えば退職一時金の支払いの一部を企業本体から直接負担することを制度上明確化するなど、返還実施後も信託財産が過度に減少しない仕組みをあわせて検討することが考えられます。
6.「一定期間」はどのくらい見ればよいのか
もう一つの重要な論点が、「将来の予測可能な一定期間」をどのように考えるかです。
この点についても、すべての企業に共通する一律の年数があるわけではありません。
たとえば、特定の年齢層に従業員が偏っている企業では、今後数年間で退職給付債務が大きく減少することがあります。一方で、その後も企業が一定規模の従業員数を維持するのであれば、退職給付債務はいずれ一定の水準に落ち着くと考えられます。
そのため、シミュレーション期間を考える際には、退職給付債務の水準が一時的な変動を終え、ある程度安定した状態になるまでを一つの目安とすることが考えられます。
もちろん、必要な期間は企業ごとに異なります。従業員の年齢構成、採用方針、退職給付制度の内容、給付支払いの見通しなどによって、確認すべき期間は変わってきます。
したがって、「何年見れば十分か」を形式的に決めるのではなく、自社の退職給付制度と人員構成に即して、合理的に説明できる期間を設定することが大切です。
7. 返還を検討する前に、まずシミュレーションで全体像を確認する
退職給付信託内のみなし保有株式を売却すると、信託財産は株式から現金等へ変わります。その結果、「この資金を事業主に返還できないか」という検討が自然に生じます。
しかし、返還を実行する前には、少なくとも次の点を確認しておく必要があります。
まず、適用指針第106項に照らして、どの程度の金額が返還可能と考えられるのか。そして、返還によって退職給付会計上の損益や未認識項目にどのような影響が生じるのか。
さらに、税務上の取扱いや、監査法人との協議に必要な説明資料についても、早い段階で整理しておくことが望まれます。
特に重要なのは、返還可能額の試算を一つの前提だけで行わないことです。割引率、運用収益率、人員構成、給付見通しなどについて複数のシナリオを置き、返還後の積立状況がどの程度安定しているかを確認することで、より説得力のある検討が可能になります。
8. まとめ
返還可能額は、企業ごとの事情を踏まえて確認する必要がある
退職給付信託からの返還は、余剰資金の有効活用や資本効率の改善につながる可能性があります。政策保有株式の縮減が求められる中で、信託内のみなし保有株式を売却し、その後の資金活用を検討することは、今後さらに重要なテーマになると考えられます。
一方で、退職給付信託は退職給付に充てるための資産であり、事業主が自由に返還を受けられるものではありません。返還を検討する際には、返還後も退職給付信託が会計上の年金資産として認められること、将来の一定期間にわたり積立超過が継続すること、返還する部分が将来の退職給付に使用される見込みがないことを、合理的に説明する必要があります。
そのためには、現在の積立超過額だけを見るのではなく、将来の退職給付債務と年金資産の推移を丁寧にシミュレーションすることが欠かせません。特に、退職一時金制度を対象とする退職給付信託では、給付支払いによる信託財産の減少や、企業本体からの直接支払いの考え方なども含めて検討する必要があります。
返還可能額の算定は、単なる機械的な計算ではありません。退職給付制度の内容、人員構成、給付見通し、資産運用の前提、監査法人との協議方針を踏まえた、実務的な検討が求められます。
みなし保有株式の売却や退職給付信託からの返還を検討される際には、具体的な意思決定に先立ち、自社の状況に即した返還可能額シミュレーションを行い、返還後の積立状況や会計上の影響を確認しておくことが重要です。
退職給付債務の計算や資産運用やALM分析に精通した専門家とともに、早い段階から検討を進めることが、円滑な監査法人協議と適切な意思決定につながります。
※当コラムには、執筆した弊社コンサルタントの個人的見解も含まれております。あらかじめご了承ください。
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この記事を書いた人 公益社団法人日本証券アナリスト協会認定アナリスト(CMA) 髙木 明仁 |
横浜国立大学経済学部経済法学科卒業。 政府系金融機関にて、資金運用、証券・資金決済業務に携わる。また、系列投資顧問会社、地方公務員共済組合連合会、中小企業基盤整備機構へ出向し、年金・共済資金の運用に従事。2020年6月に株式会社IICパートナーズにコンサルタントとして入社。 |
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