資産所得倍増プランにおいて期待される企業の役割 ~雇用者のWell-Beingを実現するために~

1.資産所得倍増プランの決定
(1)資産所得倍増プランの7つの柱
政府は2022年11月28日に、少額投資非課税制度(NISA)の恒久化、iDeCo加入年齢の引上げ等を柱とする「資産所得倍増プラン1 」(以下「倍増プラン」という)を決定しています。
このプランは新しい資本主義実現会議が定めた「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2」(2022年6月7日閣議決定)の中で示された、貯蓄から投資のための「資産所得倍増プラン」について、新しい資本主義実現会議の下に設置された、資産所得倍増分科会において検討が進められてきたものです。
その内容は、表-1の通り7本の柱からなっています。
(表-1)「資産所得倍増プラン」における7本の柱
第一の柱 | 家計金融資産を貯蓄から投資にシフトさせるNISAの抜本的拡充や恒久化 |
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第二の柱 | 加入可能年齢の引上げなどiDeCo制度の改革 |
第三の柱 | 消費者に対して中立的で信頼できるアドバイスの提供を促すための仕組みの創設 |
第四の柱 | 雇用者に対する資産形成の強化 |
第五の柱 | 安定的な資産形成の重要性を浸透させていくための金融経済教育の充実 |
第六の柱 | 世界に開かれた国際金融センターの実現 |
第七の柱 | 顧客本位の業務運営の確保 |
(2)資産所得倍増プランにおいて期待される雇用主(企業)の役割
この倍増プランは、NISAやiDeCoの拡充等を通じて、2、000兆円を超える個人金融資産の貯蓄から投資への転換を促し、インベストメント・チェーンの機能発揮により経済成長を実現し、その成果が家計に分配されることを通じて、国民(特に中間層)の安定的な資産形成を促進することを目的としています。一見すると、家計への働きかけが中心であるように見えますが、それだけではなく、雇用主による雇用者の資産形成の支援の強化をはじめ、雇用者の資産形成のために、雇用主の役割と取組みが求められていることが、倍増プランの大きな特徴です。
具体的には、表-1の7つの柱のうち、第四の柱では、「雇用者に対する資産形成の強化」が謳われ、雇用主には雇用者の資産形成を後押しする取組みが期待されています。また、第七の柱では「顧客本位の業務運営の確保」が謳われ、金融商品等を販売する金融事業者等だけでなく、企業年金制度等の制度運営に携わる関係者についても、雇用者(従業員・加入者等)の利益を第一に考えた業務運営を確保することが求められています。
このように、雇用者の資産形成の支援のため、雇用主が果たすべき役割について広く言及されていることに留意したいと思います。
拙稿では、「資産所得倍増プラン」で期待されている、雇用主(企業)の役割について整理したいと思います。
1 新しい資本主義実現会議(第13回)2022年11月28日 資料3
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/kaigi/dai13/shiryou3.pdf
2 新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/pdf/ap2022.pdf
2.第四の柱:雇用者に対する資産形成の強化(企業の役割への期待(1))
まず、倍増プランの第四の柱では、中間層の勤労所得水準の拡大に向けた労働市場改革が進められるなか、併せて、雇用者の金融所得を拡大するため、企業に対し雇用者の資産形成を支援する取り組みを推進することを求めています。また、世界でも企業を通じた雇用者の心身の健康のみならず経済的な安定(Financial Well-Being)を支援する取り組みが広まりつつあるとしたうえで、次の2つの施策が具体的に示されています。
(1)中立的な認定アドバイザー(表-2参照)の活用
企業による雇用者の資産形成の支援は、エンゲージメントの向上(雇用者の満足度・勤労意欲の向上)、金銭的ストレスの軽減といった効果が期待されます。他方で、多くの個人が資産形成に関するアドバイスを受ける機会を十分得られていないという現状もあります。
このため、倍増プランでは、企業を通じた雇用者の経済的な安定の取組を活性化するため、職域における中立的な認定アドバイザーを活用する取組を企業に促すとしています。
具体的には下記の施策が示されています。
- 雇用者が中立的な認定アドバイザーを活用する場合に企業から雇用者に対して助成を行うことを後押しする
- 雇用者向けの企業内インセンティブ・ポイントプログラム(※)の横展開
((※)雇用者に対し資産形成や関連サービスの活用可能なポイントを配布するもの) - 企業内に設置される雇用者向けの資産形成の相談の場において、中立的な認定アドバイザーの積極的な活用の促進
(表-2)「中立的な認定アドバイザー」と「金融経済教育推進機構(仮称)」
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(2)企業による資産形成の支援強化
企業における雇用者の資産形成の支援のための取組は、人的資本の戦略上も重要であるとしたうえで、下記について検討するとされています。
- 従業員が職場つみたてNISAや従業員持株会に投資する際の企業の奨励金について、課税に関する取扱いを検討
- 資産形成支援の取組が十分ではない、中小企業においても職場つみたてNISAや企業型DC、iDeCoが広がるよう必要な支援の検討
3.第七の柱:顧客本位の業務運営の確保(企業の役割への期待(2))
次に倍増プランの第七の柱は、確定給付企業年金(DB)、企業型確定拠出年金(企業型DC)を実施している企業の皆さんに影響を与えるものです。この第七の柱は、本来は主として、金融商品を組成、販売する投資運用業者、金融機関などの金融事業者に対し、顧客本位の業務運営を行うことを求めるものです。すでに、金融庁からは金融事業者に対し、顧客本位の業務運営を行うための指針として、「顧客本位の業務運営に関する原則3」(2017 年3月 30 日(2021 年1月 15 日改訂))が示されています。
しかし、この倍増プランでは、金融事業者だけでなく「企業年金の運営に携わる者」についても横断的に、顧客本位の業務運営を確保するため、顧客等の利益を第一に考えた立場からの取組の定着や底上げが図られるよう、必要な取組を促すための環境整備を行うこととされています。また、アセットオーナー(企業年金含む)は、受益者等の便益の最大化のため適切な運用リターンの実現を図る必要があるとされ、そのため、関係省庁が連携し幅広い関係者との継続的対話、運用体制・手法に係る調査研究の実施など、運用の改善に向けた対応を進めることとされています。
従って、企業年金制度(DB・DC)を運営する企業の皆さんには、倍増プランの第七の柱である、顧客本位の業務運営のための必要な取組みが求められることになります。
3 金融庁 https://www.fsa.go.jp/policy/kokyakuhoni/gensoku3.1.15.pdf
4.第七の柱と顧客本位タスクフォース(※)での議論-最善利益義務と企業年金
((※)金融審議会の市場制度ワーキング・グループに置かれた検討チーム)
上記3.の第七の柱の記述だけでは、必ずしも具体的なイメージは掴めません。しかし、この倍増プランと並行して金融庁において検討されてきた、顧客本位タスクフォース(以下「顧客本位TF」という)中間報告(以下「TF中間報告4」という)では、その具体的な姿が示されています。
(1)最善利益義務の法制化
TF中間報告では、家計の資産形成を支えるインベストメント・チェーンの機能発揮のため、インベストメント・チェーン全体における顧客・最終受益者の最善の利益を考えた業務運営を確保することを、広く金融事業者等の共通の義務(最善利益義務)として定めることが提言されています。その内容は表-3の通りです。
(表-3)「最善利益義務」
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(2)現行法制との関連
こうした動きは、企業年金(DB(基金型/規約型)・企業型DC)の運営に携わっておられる皆さんにとって、「根耳に水」の話ではないかと思われます。
説明するまでもなく、企業年金の運営に携わる皆さんは、受託者責任が企業年金制度運営の中核的なルールであることを認識され、日々業務運営を進めておられると思います。表-4の通りDB法・DC法をはじめとして、企業年金の運営に携わる皆さんには、忠実義務など法令上の義務と責任が課されており、「屋上屋を架す」ものではないかという疑問を持たれるのも、当然のことと思います。
この点について、TF中間報告では「金融商品取引法において規定されている誠実公正義務は、証券監督者国際機構が定めた証券業者に関する行為規範原則を取り込んだものだが、その原則にあった『最善利益義務』の文言が取り込まれておらず、『最善利益義務』が含まれているかは明確でない。」ため「これを法律上定めることで、誠実公正義務に内包されるべき『最善利益義務』が明確化されるとも考えられる。5」と説明しています。
他方で、企業年金制度の所管官庁である厚生労働省は、2022年12月7日に開かれた第20回企業年金個人年金部会において、 大竹企業年金個人年金課長は「(表-4のDB/DCに係る義務を説明したうえで)、金融庁を中心に顧客本位TFで議論されている内容につきましても、何か新しい義務とか規制を定めるというよりは、現在規定されている忠実義務の範囲で理念的に規定して、取組を求める6」ものとして説明しています。
(表-4)企業年金関係者等に課されている忠実義務等
企業年金(DB) | 忠実義務 善管注意義務(民法類推適用) |
DB69(規約)/70(基金) 運用ガイドライン等 |
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DB年金運用受託機関 | 忠実義務 | DB71(規約)/72(基金) |
企業年金(DC) | 忠実義務 | DC43 法令解釈通知 |
DC運営管理機関 | 忠実義務 | DC44 |
投資運用/投資助言業者 | 忠実義務・善管注意義務 | 金商41/42 |
金融商品取引業者 | 誠実公正義務 | 金商36 |
※DB/DCは運用ガイドライン/法令解釈通知で制度運営上留意すべき義務を具体的に規定
4 金融審議会市場制度ワーキング・グループ顧客本位「TF中間報告」2022年12月9日
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20221209/01.pdf
5 脚注4「TF中間報告」P2脚注2
6 第20回 社会保障審議会企業年金・個人年金部会 議事録
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_29957.html
5.「最善利益義務」の法制化と企業年金の実務
「最善利益義務」に関する法律改正は、現在開会中の通常国会に上程され、本年6月ころには成立、公布されると思われます。また、法律の施行は通例であれば公布後1年~1年半後ですので、2024年度中の施行が予想されます。
「最善利益義務」が法制化されることは、上記4.で説明しましたように、両省庁の説明を聞く限り、本来あるべき義務の明確化(金融庁)であったり、現在の忠実義務の範囲に留まるもの(厚生労働省)であるとされています。他方で、新たに法律に「顧客の最善の利益のための業務運営」が、企業年金の運営者の皆さんの法律上の義務として書き込まれることは、軽視できないことのように思います。現在、顧客本位TFの議論がまだ続いており、また法律案さえ出ていない段階で、実務への影響をあれこれ議論することには限界があります。
しかし、両省庁がこれまで公表してきた説明資料等を参照して、両省庁の関心の所在を推測することは可能です。例えば、厚生労働省が第19回企業年金・個人年金部会(2022年11月14日)に提出した、資料2「私的年金制度(企業年金・個人年金)の今後の課題7」の2.節において、顧客本位TFについて9ページにわたって紹介し、顧客本位TFでDB・DCの課題として取り上げられた事項を、顧客本位TFの資料を引用する形で4ページを割いて説明しています。
その内容は表-5の通りです。
(表-5)企業年金の制度運営上の課題として意識されていると推測される事項8
(1) DBに関する課題(運用管理の意思決定) |
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・企業年金の7割弱が母体企業との関係を勘案して運用機関を決定している ・年金運用の意思決定において企業年金の7割が外部専門家を活用していない |
(2) DCに関する課題(運営管理機関及び商品に対する評価・モニタリング) |
・評価・モニタリング等を行っていないDCも依然多数、検討予定のDCも少数 |
(3) 金融経済教育を巡る課題(企業型DCにおける継続投資教育1) |
・継続投資教育について企業と従業員の間のギャップが存在 |
(4) 金融経済教育を巡る課題(企業型DCにおける継続投資教育2) |
・DCの45%は元本確保商品を選択、指定運用方法のうち75%が元本確保商品 |
表-5の(1)(2)はDB・DCのガバナンスに関する事項で、同じく(3)(4)はDCの継続投資教育に関する事項です。これらの論点は、厚生労働省も課題として意識していることが推測されます。今後の企業年金・個人年金部会でさらに議論され、具体的に行政上の施策として取組まれていく可能性が高いと予想されます。
7 第19回社会保障審議会 企業年金・個人年金部会 資料2「私的年金制度(企業年金・個人年金)の今後の課題」
https://www.mhlw.go.jp/content/10600000/001011934.pdf
8 脚注7資料 P16-19より筆者作成
6.資産所得倍増プランと人的資本経営
(1)資産所得倍増プランと顧客本位TF
少し、顧客本位TFの話題が長くなりましたが、顧客本位TFでは「最善利益義務」だけでなく、その他の資産所得倍増プランで述べられている課題についても、より具体的に提言がなされています。
企業との関係では、TF中間報告の「Ⅲ 金融リテラシーの向上」で、「金融教育の機会提供に当たっては、企業等の職域での取組が鍵となる。9」とされているほか、「Ⅳ 総合的な資産形成支援」では、「民間企業による主体的な取組みと国との連携も不可欠で・・・金融経済教育や資産形成支援についても、例えば、民間企業がつみたて NISA 等の普及や利用促進を図るため社員向けセミナーを開催するなど10」の取組みを広く進めることが重要であると述べられています。
このように、倍増プランとTF中間報告では、企業が従業員の資産形成のために大きな役割を担うことが期待されています。また、従業員の資産形成の中核である企業年金運営についても、従業員の利益を優先した業務運営の徹底が、今まで以上に求められていくことになると思われます。
(2)資産所得倍増プランの背景としての人的資本経営
倍増プランが求める、雇用者の資産形成のための企業の役割への期待は、人材を「資本」と捉え投資の対象とし、企業価値を高めていくという、人的資本経営の考え方が背景となっています。
具体的には、雇用者の資産形成を支援し、そのための必要な投資を行うことは、雇用者のFinancial Well-Beingを実現し、雇用者のエンゲージメントを高め、優れた「人財」を確保することで、生産性や企業価値の向上につながって行きます。そして、その成果を株主だけでなく従業員や社会というステークホルダーに還元し、投資と成長の好循環を生み出していくことが、人的資本経営において期待されています。
倍増プランが求める、雇用者の資産形成の支援に向けた取組みは、企業にとって、人的資本経営を通じて企業価値向上を実現するための、重要な施策の一つと考える必要があると思われます。
9 脚注4「TF中間報告」P9
10 脚注4「TF中間報告」P10
最後に
倍増プランは公表されたばかりであり、各施策についての内容は、これから具体化されていくものと思われます。引き続き、倍増プランで言及された従業員の資産形成のための支援策の動向や、企業年金に課される「最善利益義務」の法制化の進捗状況等についてフォローし、企業の経営や企業年金の運営に携っておられる皆さんに、情報提供していきたいと考えております。
本稿で取り上げました話題について、皆様から、ご意見、ご質問のほか、お困りごとについてもご相談をいただけますと幸いです。
尚、本稿の内容は筆者個人の見解で、所属組織の見解ではないことを申し添えます。
※当コラムには、執筆した弊社コンサルタントの個人的見解も含まれております。あらかじめご了承ください。
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この記事を書いた人 取締役 公益社団法人日本証券アナリスト協会認定アナリスト(CMA) 矢部 信 |
1977年に一橋大学社会学部を卒業。 日本債券信用銀行に入行、法人営業などのほか、債券運用を中心に銀行の証券業務に長期に亘り携わることができました。その後、1999年から東京海上アセットマネジメント投信に転職、企業年金・公的年金のクライアントサービスなどの業務に従事し、2014年から厚生労働省年金局企業年金・個人年金課で企業年金資産運用専門官として勤務しました。 2019年4月より公益財団法人年金シニアプラン総合研究機構特任研究員、同年6月から株式会社IICパートナーズ顧問、2020年9月からIICパートナーズ取締役を務めております。 |